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忌宮神社 その3

      2014/01/12

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今日は、毎年8月に行われる忌宮神社の「数方庭」について書きたいと思います。忌宮神社の境内に設置してある「鬼石」に関する看板に、

第十四代仲哀天皇は、九州の熊襲の叛乱を平定のためご西下、ここ穴門(長門)豊浦(長府)に仮の皇居を興されたが、仲哀天皇七年旧暦の七月七日に朝鮮半島の新羅国の塵輪が熊襲を煽動し豊浦宮に攻め寄せた。皇軍は大いに奮戦したが宮内を守護する阿部高麿、助麿の兄弟まで相次いで討ち死にしたので、天皇は大いに憤らせ給い、遂に御自ら弓矢をとって塵輪を見事に射倒された、賊軍は色を失って退散し皇軍は歓喜のあまり矛をかざし旗を振りながら塵輪の屍のまわりを踊りまわったのが数方庭(八月七日より十三日まで毎夜行われる祭)の起源と伝えられ、塵輪の顔が鬼のようであったところからその首を埋めて覆った石を鬼石と呼んでいる。

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(写真はGoogle画像検索より)

今でこそ戦勝記念のお祭りのように思われていますが、元々は、農耕信仰が発端の祭りのようです。アジアでも中国南部・台湾・インドネシア・ベトナムで同じような祭りが行われ、「スッティ」若しくは、近い発音で呼ばれたようで、それが「スホウテイ」と言われたようです。

古代では、稲作の時期を知らせる鵜が飛来すると、雨季と共に稲作の準備をしていたようです。(鵜は、天井天下を結ぶ鳥で、水に潜り空を飛ぶとされ尊ばれたようで、幟の先端に鵜を括りつけていたそうでう)。余談ですが、巫女が亡くなると、鵜を抱いて埋葬されたようで、天上に連れて行ってくれると信じられた、とも言われています。

仲哀天皇が、豊浦宮の浜に攻めてきた熊襲・新羅連合軍の大将・塵輪の首を弓矢で射抜きその首と副葬品が埋葬されたのが鬼石、と言われています。

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忌宮神社に伝わる伝説によると、鬼石の七尺下に塵輪の首が埋葬されたとされた言われており、史実を確かめるべく科学的に調査を知り合いの海底探査会社(主に関門海峡の磁気機雷を調査している会社)に依頼しました。この日は、新聞社・テレビ局が取材に来ていました。

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結果、鬼石から本殿側3.5M、深さ3M下に、直径40cmの鉄製の破片(首飾り?)の反応と、更にその斜め下に50cmの鉄製の棒状の反応がありました。埋葬時の副葬品でしょうか?夢を掻き立てられます。神社に伝わる史実と照らし合わせると、元々境内の敷地が狭く広げるために盛土をしたことを踏まえると、概ね高さ的には合っているように思います。

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